金沢市にはお寺が多いです。
しかも、ある場所に固まってお寺があります。
これはなぜなのか?
お金の点
加賀藩は藩の中でも大きく、たくさんの武士がいました。
武士というのは、出世してなるものではなく、出生が武士家系であるかが全てでした。
それだけに祖先を祭る事が重要だったわけです。
武士がお寺にするお布施の金額は、武士の給料に対してけっこうな金額でした。
数多くのお寺が維持できるほどの収入があったわけですね。
防衛の点
金沢はある箇所にお寺が固まって建っています。
1つ目はひがし茶屋街周辺(卯辰山山麓寺院群)
2つ目は妙立寺(忍者寺)周辺(金沢市寺町台伝統的建造物群保存地区)
これは自然に固まったわけではなく、作為的に集められたものでした。
加賀藩が恐れたもの。
「徳川家」
そして「一向一揆」
徳川家は外様大名としてもっとも大きな力を持っていた前田家を危うい存在と見ていました。
そしてそれを前田家も知っており、常に警戒心をもって監視の目を用意していました。
その一つが忍者寺と呼ばれる妙立寺です。
ここは観光名所として人気が高いお寺です。
あらゆるところに仕掛けを配し、敵からの監視所として防波堤としての役割を持っていました。
現在では周囲に妙立寺よりも高い建物はありますが、その昔は一番高い建物でした。
敵の侵入を見張っていたわけです。
その周囲に多くの武士が起居できる寺町寺院群を建て、一帯で迎え撃つ準備をしていたわけです。
金沢城から見て川の向こう側に寺町寺院群が配置されているのも面白いです。
川が守りの重要な防御壁であったのが見れます。
という「徳川家」からの守りとしての寺町寺院群。
もう一つの役割として「一向一揆」の防衛策としての寺町寺院群。
「一向一揆」をなぜそこまで加賀藩が怖がっていたのか?
加賀と言えば「加賀一向一揆」は有名です。
1488年頃から1580年にかけて、加賀の本願寺門徒らが中心となった一向一揆です。
加賀藩が形成される前の加賀は、守護の富樫氏を追放し、100年近く一揆勢が共和国的な体制で運営されていた国でした。
ちなみに一揆とは既成の支配体制に対して武力蜂起をする運動の事だけをいうわけではなく、政治的共同体を結成した集団も意味をします。
過去に一揆は、国を統治していた守護を力により排して、国(共同体)を作ったという事実があるわけです。
その一揆の中心となったの一向宗です。
一向宗とは鎌倉時代の浄土宗の僧・一向俊聖が創めた仏教宗派で、浄土真宗、ことに本願寺教団を指す呼称です。
そこで一向宗寺院をお城のお膝元に置いて、それを囲むように他宗の寺院を配し、監視をさせていました。
金沢のお寺の宗派は多様です。
・顕本法華宗
・高野山真言宗
・時宗
・浄土宗
・真言宗
・真宗大谷派
・曹洞宗
・天台真盛宗
・日蓮宗
・法華宗真門流
・法華宗陣門流
・法華宗本門流
・本門仏立宗
・臨済宗
歴史と都市形成、そして現在というのは繋がっているんだなと改めて感じられます。